花見をきっかけに過去をめぐる

週末、花見に出かけました。
福岡市内から車で小一時間ほどの糸島方面。桜と菜の花が同時に楽しめる場所で、かといって人もさほど多くなく、のんびりと花見散歩を楽しめました。

家に帰ってふと「そういえば、日本ではいつぐらいから花見を楽しむようになったんだろう?」という疑問が湧いてきたので、思いつくままに桜と花見の歴史について調べてみました。

花見は治水工事のための仕掛けだった?

花見の歴史でまず思い出したのは、江戸時代の八代将軍・徳川吉宗のエピソードです。
吉宗は、隅田川沿いの堤防に桜を植えましたが、単なる景観づくりではなく、堤防に桜を植えることで多くの人が桜を見に訪れ、堤防を踏み固めることで、結果的に堤防が強くなるという――財政がひっ迫した幕府が知恵を絞って治水を行ったという話ですね。

この話は雑学として何となく覚えていて、花見のはじまりを考え始めた時に真っ先に思い出しました。

おもしろい話ではあるのですが、花見のはじまりが権力者からの働きかけだったというのは、なんだかちょっと嫌だなという思いもありました。吉宗のエピソードも、桜があればそれを愛でる人々が集まってくるという前提があってのことなので、当然、純粋に桜や春を愛でる気持ちが人々の中にあったのでしょうけど、それでも花見という文化(習慣)の起源が権力者からの働きかけだったとしたら、寂しく感じて、それ以前(以外)にも花見の習慣はあったんじゃないか?と思い、もう少し調べてみました。

権力者たちの花見

最初に花見を催したとされるのは、平安時代の嵯峨天皇。『日本後記』によると、812年、神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したと記されているそうです。

他にも紀友則の「久方の ひかりのどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ」という歌が出てきて、花見の歌ではないですが、この花は桜のことらしいです。平安時代には桜を愛でる習慣はあったということですね。

もっと時代が下ると、豊臣秀吉が催した数百人を引き連れて桜の下で大規模な宴を開いた「吉野の花見」「醍醐の花見」も有名です。

ただ、これらは特権階級の記録ばかり。庶民の間で花見は行われていなかったんでしょうか?今ほど生活に余裕がない時代では、悠長に桜を眺めている余裕はなかったのかしら?と思っていたら、そうでもなかったみたいです。

庶民の花見はどうだったのか?

「庶民は花見なんてできなかったんじゃないか?」そう思いながら調べていたところ、意外な文献に出会いました。吉田兼好(最近は兼好法師というんでしたっけ?)の『徒然草』です。

その第137段で貴族の花見と庶民(田舎者)の花見が比較されています。現代語訳でしか読んでませんが、その内容はこんな感じです。

「都の人々は桜を優雅に愛でるが、田舎者は桜の下で酒盛りをして騒ぎ、風情を解さない。遠くから静かに眺めずに、木の近くまでいってまじまじと眺めるし、挙句の果てに枝を折って持ち帰る」などなど。

なんとも辛辣。でも、同時に「なんだ、昔からそんな感じだったのか」と妙な親近感も湧きました。
「花より団子」を通り越して花見を理由にお酒とどんちゃん騒ぎで盛り上がる、という現代人にも通じる感覚は昔から変わらないんだなと。

ただ、その根底には長い冬が終わって、ようやくやってきた穏やかな陽気、その心地よさを味わいたくなる気持ちがあるのは真実でしょうし、それは今も昔も変わっていないようでホッとしました。

その他雑感

「久方の~」の歌を詠んだ紀友則ってどんな人だったのか?主にWikipedia情報

  • 845年~907年。平安時代前期の人。
  • 三十六歌仙の1人。上記の歌は百人一首にも入ってる。
  • 同じく三十六歌仙の紀貫之が従兄弟。
  • 官位は六位なので下級貴族。

下級貴族ながら歌がうまかったので、1000年後にも名を残してる一芸の人だったようですね。

「久方の~」の歌では桜の花を愛でてるものの、それより前は花と言えば梅だったと学校で習った記憶があります。でも、それって貴族だけの話で、庶民は桜も「きれいだね」と言ってみてたんじゃないのかしら?

暖かくなって花が咲きだすと、梅でも、桜でも、みなきれいだと思う気がするんだけど、昔の人は本当に桜はスルーだったんだろうか?このころはソメイヨシノはなくて山桜だったそうなので、身近にはなかったということなのかもしれない。

芋づる式に気になることは出てくるけど、花見の起源から始まる一連の想い巡りはいったんここまで。

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