長期は東洋、短期は西洋?—2つの思考の使い分け

少し前から、仏教哲学について興味があり本を読んだりポッドキャストを聞いたりしてインプットしていました。まだ理解の解像度が荒くて言葉にばらつきがありますが、一旦整理したいと思います。

“成長すれば幸せ”の価値観にモヤモヤしていた

近現代の社会は、西洋的な考え方(おもに資本主義)を中心に発展してきたように思います。お金を稼ぐこと、成長すること、拡大していくこと。そういうことが「正しい」とされ、価値のあることだとされてきました。

もちろん、それによって生活が便利になったり、社会が豊かになったりしてきたのは間違いありません。でも、今はその価値観だけではカバーしきれないことも増えてきている気がします。

たとえば、「お金を稼ぐことだけが幸せなのか?稼いだお金で何がしたいのか?自分は何のために生きているのか?」とか、「成長やお金を稼ぐことに偏りすぎて自然を破壊したり、他人(他社)を蹴落として自分・自社の成長ばかり考えすぎていないか?」といった、問いが生まれていました。これは自分だけでなく、世の中全体で増えている傾向なんじゃないかと思います。

西洋的な合理性・経済性や成長一辺倒の考え方だけでは、個人としての在り方や持続的な成長・関係維持が難しくなってきているように感じていました。

そんなとき、仏教哲学が私に新しい視点をくれました。

もちろん、西洋の考え方はもうオワコンで東洋の思想が一方的に「正しい」という話ではありません。ただ、西洋の視点に東洋の視点を重ねることで、物事をより多角的に見られるようになる。いろんな角度から考えたり、判断したりできるようになることが、これからの時代にはすごく大事なんじゃないかと思っています。

あと、東洋哲学=仏教哲学ではないのと、その対になるのは資本主義だったり唯物論的な思考・価値観として語っているのですが、上手い言葉が見つからないので「仏教哲学 vs 西欧思想」という言葉で語っています。

仏教哲学が教えてくれた、もうひとつの見方

仏教哲学では、世の中を関係性の総和でとらえるような見方をしたり、実体と思っていたものの境界線はかなりあいまいで個々人の認識によって世界の在り方は変わるという考え方をします。これらは私にとって真理の説明として新しい方法だったのと同時にかなり納得感を持っていました。少なくとも、それまでの西洋的な説明でしっくり来ていなかった部分を十分補ってくれたように思います。

ただ、仏教哲学のような深い思索は、難解なのと同時に本当に正しく理解しようとするとかなりの鍛錬と理解力を要します。要は修行によって悟りを開く状態になる必要があります。そこまでいかずとも一般人が日常的に使うには、大上段すぎるのと、実際の問題解決との間に距離がありすぎて使いこなせない印象も受けました。日常の小さな判断をするのに、現状把握を真理レベルから始めるのは距離がありすぎるし、そこまでせずともおおよそ妥当な判断ができそうな気もします。

なので、現時点での解釈としては、次のような使い分けが良いんじゃないかと考えています。

  • 「将来どうなりたいか」や「自分にとっての幸せの意味は」といった、長期視点の問いについて考える時には、現状認識が誤っていると正しい判断ができないので、世の中の捉え方は一面的にならないように意識的に仏教哲学的な視点を多く持つ。
  • 「足元の仕事をどう進めるか?」「今期の目標を何において、どう達成するか?」「GWの家族旅行はどこに行こう?」といった短期的な問題は、世の中の捉え方から再設定しているとリソース(時間も脳パワーも)使いすぎるので、既存のロジックで合理的に考えていけばいいと思う。

ざっくり言うと、長期的な問いには仏教哲学5:西欧思想5、短期的な問題には仏教哲学1:西欧思想9ぐらいのイメージ。

仏教と西洋の“ちょうどいい使い分け”

日常のあらゆる判断を、全部仏教的にしようと思っているわけではありません。ましてや、出家しようとしているわけでも(もちろん)ありません。
でも、人生の節目や価値観を問い直すようなタイミングでは、ひとつの答えじゃなくて、いろんな視点で考えることが大事だと感じています。

西洋的なロジックは即効性や実用性があるけれど、それだけでは捉えきれないものもたしかにある。
だからこそ、仏教哲学のような異なる軸を持ち合わせることで、選択肢や理解の幅がぐっと広がる感覚があります。

今の私は、両方の視点を「必要に応じて持ち出せるようにしておく」という感覚でいます。
頭の中に、複数の“ものさし”を置いておくことがこれからの時代をしなやかに生きていくためのヒントになる気がしています。

最近はそんなことを考えていました。

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