いつのころからか「言葉で伝える」という行為は、思っている以上に不完全なものだ、と感じるようになりました。
起きている事象や、自分の中で生まれた考えを言葉にした瞬間、どれだけ慎重に言葉を選び、説明を重ねたとしても、実際に起きたことや、自分が感じたことを完全に伝えることはできない。そのようなもどかしさを感じるようになりました。
そもそも、言葉にする以前の段階、つまり「認識する」という時点ですでに情報は削られています。人間は複雑な事象を、そのままの形で正確に理解することができません。理解しやすさを優先するために、無意識のうちに情報をそぎ落とし、単純化し、デフォルメして捉えています。その結果、わかりやすさと引き換えに、正確さや情報量が失われてしまいます。
たとえば、富士山の頂上で見た朝日の美しさを誰かに伝えようとするとします。そこには、頂上の気温、吹き付ける風、昇ってくる朝日のまぶしさと温かさ、雲の形や移ろいなど、膨大な要素が含まれています。本来であれば、それらすべてが重なり合って「美しさ」を形作っているはずです。
しかし、それらすべてを同時に認識し、等しく理解すること自体が人間には難しい。結果として私たちは、無意識のうちに一部の要素にフォーカスし、それ以外を切り落とした形でその場を理解することになります。
さらに、アウトプットの段階でも情報は削られます。まず言葉にしようとすると、自分の表現力やボキャブラリーの限界にぶつかる。加えて、認識したことのすべてを言葉に変換できるわけでもありません。言葉になる以前の感覚や違和感、雰囲気のようなものは、アウトプットの過程でどうしても取りこぼされてしまいます。
その結果、言葉として外に出てくるのは、削られ、整理され、変換された情報の一部だけになります。富士山頂の朝日の例だと、「光がきれいだった」「空が赤く染まっていた」といった表現は、その時に感じていたことのほんの一部に過ぎません。
だとすると言葉を介したコミュニケーションで正確な情報のやり取りは不可能そうですが、それでも人間は言葉を通じて世界を認識し、会話によって生活するしかありません。
そう考えた時に大事なことが2つあると思いました。
まずより正確な認識や理解に近づくためには、たくさんの言葉を知っておくことが重要になります。ここでいう「言葉」とは、単なる単語の数ではなく、背景となる知識や経験、文脈も含めたものです。それによって、少しでも正確に認識し、正しく伝える能力を高めること。
もう一つは我々が使っている言葉という道具が不完全な道具である、と理解することです。一つの単語、表現が一義的な意味を持つのではなく、意味の境界は結構あいまいで、だからこそ、言葉を尽くして説明したり確認を取り合わないと、意図しない衝突やすれ違いが生まれてしまう。
正しく表現したなら、それを正しく理解するかどうかは受け手の問題、と他責になるのではなく、常に「正しく伝わっているだろうか?」と好意的に疑い、確認する姿勢で臨む必要のあるような不完全なツールが言語なのだ、という感覚を持つことが大事だろうということです。
そう書いているこの文章でさえ、言いたいことを上手く整理出来ていない感覚があり、言葉足らずで誤解を生む内容になっていないか、戦々恐々としながら公開しています。